説教塾

ボーレンの葬りのための礼拝から:クリスティアン・メラー /  略歴 /  偲ぶ言葉: ヴァルター・アイジンガールードルフ・ランダウユルゲン・ケーグラー山田晃美 /  書籍

ルードルフ・ボーレン教授を偲ぶ言葉

   
ハイデルベルク大学神学部代表
ヴァルター・アイジンガー


 愛するウルズーラ、愛するボーレン家の方たち、愛する教会員の方たち。
 ハイデルベルク大学大学神学部は、本日、ひとりの同僚に別れを告げます。ひとりの人間として、研究者として、大学の教師として、私どもの間で、まことに際立った足跡を残された方であります。偲ぶということは感謝することであります。ルードルフ・ボーレン先生は、専門として力を注いでおられた〈実践神学〉における働きを別といたしましても、まことに豊かな宝を持っておられ、その大きな広がりを持った神学的思索によって大きな貢献をもたらしてくださいました。そのために、先生の同僚も学生たちも、いきいきとした思い出に留まり続け、それは今も変わりはありません。先生は、言ってみれば、神学部内のスイス「植民地」に属するひとでありました。チューリヒ出身教授、バーゼル出身教授と並んで、あのオーバーラントからやって来たベルン出身の教授でありました。先生は、ドイツ神学部にこびりついたようなややこしい議論の仕方を好まなかったものですから、自分のことを「外国人労働者」だと呼んでおられました。多くのスイス人と同じように、先生もこの世の変転を体験してこられました。初めはアールガウのホールダーバンク、それからバーゼル州のアルレスハイムで13年間牧師職にありました。それから、ヴッパータール、ベルリン、最終的にはハイデルベルク諸大学において実践神学の教授でありました。日本、そしてその地に生きる人びと、キリスト者たちに対する愛は終生消えることがありませんでした。しかしまた私どもと共にあっても、いつも境界線を越えて生きておられ、新しい出会いに、いつもこころを開いておられました。テキストであったすべてのもの、白紙に黒々と記されているすべてのものに対する愛に促され、文献学者、歴史学者たちと親しくし、ハイデルベルク、そしてドッセンハイムに生きる人びとに対しては、魂への配慮に生きるひとらしい親しみに生き、人間のこころに関わる学問の対話を惜しまず、ひととして生きることに対する情熱の故に、作家、詩人たちとの交遊をも大切しておられました。神学部においては、重点を置いておられた説教の授業、研究、説教の教え方、学生たちとの接し方、いずれにおいても、驚くべき洞察を示し、常に新しく問い続けておられました。また教会がする魂への配慮とは、「魂を慰め、また(神の)国へと呼び招くこと」であると理解し、そこでも深い考察をし、論争を呼び起こしておられました。多くの著作、なかでも『説教学』の著述を通して、常に新しく人びとと出会っておられました。〔ドッセンハイムの〕ホーゼントにある自宅に喜んで招いてくださったことも、その出会いの豊かさを示します。
 ボーレン先生は、こころの広い、親しみやすい人柄で、憂いも喜びも共にしてくださいました。不幸に直面して生きられたこともありますから、憂愁の思いも無縁ではありませんでした。しかしまた幸せな人生も味わっておられました。「私が情熱を込めてすることが4つある。水彩画を描くこと、スキーを走らせること、木を切ること、そして説教することである。情熱を知る時、われわれはすばらしいと思い、幸せだと思う。情熱は祝福を開示する」。『説教学』の叙述は、そのように始まります。そして著書『天水桶の深みにて──こころ病む者とともに生きて』には、こんな文章があります。「わたしは食べるのが好きだ。本を読むのが好きだ。信仰のための修練として断食することさえ好きである。朝食を済ますと、朝食を摂る前の自分よりも、自分の値打ちが増えたような気になる(これに賛成しないひとはいないであろう)。そして日曜日ごとに昼食を摂ったあとには、よりよい人間になったつもりにさえなる。快適な昼寝をしたいという思いも伴えばなおさらである。……読書は目で食事を摂るようなものである。いやそれだけはなくて、すべての感覚を注いでする食事である。それが栄養を与え、豊かにしてくれるのである」。こういう文章によって、ルードルフ・ボーレン先生はひとのこころに届く言葉を語ってきたのです。先生が書いておられるように、先生の観察によれば、「教会の制度に生き、社会に生き、キリスト者の世界に生き、いわゆるキリスト教文化に生き、キリスト者と自称するけれども、キリスト教会にほとんど関係なく生きている人びとも」「その考察の外に括り出されることは」ありません。そういう人びとにも言葉は届きました。先生は「神が美しくなられるような」言葉を探しておられました。神が美しくなられれば、神から考え始めようなどとほとんどできそうになかった人びとが、それを始めることができるようになります。それはまことにすばらしい言葉です。よく読んで、一緒に考えることができます。先生はまことに濃密な経験を重ねることがおできになりましたから、語られた言葉がそのまま書かれた言葉にひとしいものとなりました。ボーレン先生の言葉を読むと、先生が語りかける言葉そのものを聴き取ることができます。それが学問的な言葉を人間的な言葉としております。私どもの同僚である、この先生の大きな感化の力の根ざすところがここにあるのであります。
 『飾り文字』という小著がありますが(1998年)、その結びにこう記されております。「ドルフェン〔Dorfen、村を意味するDorfという言葉の動詞形である〕。これは私の故郷の村の方言であるが、すてきな言葉である。動詞形で語られる〈村〉である。そして、それは対話をすることを意味する。『村をする』ために隣に行く。おしゃべりをしに行くのである。非人間的にドルフェンすることはできない。人間的にドルフェンする以外にない。一緒に立ち話をする、それをドルフェンすると呼ぶ。何とすてきなことではないか。私が遂に天国に行ったならば、そこでも、愛する天使たち、エヴァゲリウス・ポンティクス、キルヒガーデンペーター、ロシアから移ってきていたアンナたち、そしてその他のすべての天使たちとドルフェンするために歩き回りたい。〔ヨハネの黙示録が語るように〕その天が降りてくるとき、それは村ではなく、都市としてであることは決まっている。しかし、私が強く願っているのは、その新しいエルサレムで知るのが都市の生活のせわしなさではないようにということである。むしろ天国らしい安らぎのなかで、ドルフェンすることができればいいがということである」。
 先生が平安のうちに眠られるように、そして私どもまた、また天国で先生とドルフェンすることができるように願っております。




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