2009年11月
今年はプロテスタント宣教百五十年記念の年である。東京説教塾のあるセミナーで、日本の教会の説教の歴史を顧みながら、塾生たちが自分たちの見解を語った。ホーリネス教団の牧師がホーリネスにおける代表的な説教者である笹尾鉄三郎の説教を紹介し朗読した。多くの者が圧倒的な感銘を受けた。聖霊ご自身の働きのなかに聴き手を招き入れるものであった。ホーリネスの人びとのメッセージの中核をなす「きよめ」がまさに説教において出来事として起こっている説教であった。
次いで日本基督教団にあって、しかも連合長老会に属する牧師が村田四郎牧師の説教を紹介した。私が教団出版局が刊行した日本の説教シリーズのなかで紹介したが、あまりまだ関心を喚び起こしていないかと思われる説教者である。紹介者自身が村田牧師の言葉に初めて触れた感動をあらわにして朗読した説教は、ひたすら迫り来るキリストを紹介する力一杯のものであった。しかも説教者が既に八〇歳に達していたときの説教である。
興味があったのは、ほとんど対照的とも言える、このふたつの教派の牧師たちが、しかし、そこで自己批判の意味を込めて問題提起をしたのは、なぜわれわれ現在の牧師たちが、こうした先輩たちの説教のような迫力を失ったのであろうかということであった。しかも、いずれの教派においても、聖書に即した「正しい説教」をしようとひたすら学び、努力するうちに失ったものがあるのではないかと問うた。言ってみれば正しい、きちんとした講解説教をしようと心がけるうちに失ったものがあるのではないかということである。
ホーリネスの説教者たちの間で笹尾牧師の説教を愛読するひとは今は少ないそうである。村田牧師の説教を愛読する説教者は旧日本基督教会の伝統を重んじる説教者たちのなかにも多くはない。しかし、ふたりの説教を同じ集会で相前後して読まれるのを聴くと、スタイルも神学も全く違うが、しかも共通点がある。ひとりは聖霊を強調し、もうひとりはキリストを強調して語るが、いずれも神の霊的リアリティのなかに立ち、私の言葉で言えば「出来事の言葉」を語っている。竹森満佐一牧師の言葉で言えば「アッピールする」。更に別の言葉で言えば「伝道者の言葉」である。プロテスタント教会の伝道が振るわないと嘆く言葉を聴きつつ伝道一五〇年の歴史を迎えている。そのひとつの理由ははっきりしている。説教が「伝道力」を喪失しているからである。
だがしかし、そこで改めて問う。講解説教を忠実にしようとすると伝道力を失うのであろうか。再三私が語ったり、書いたりしていることであるが今日のように教派を問わず連続講解説教を多くの牧師たちがするようになったのは比較的新しい現象である。村田牧師は米国で学び、高く評価された新約聖書学者である。しかし連続講解説教をしなかった。聖書講解を忠実にしたのは日曜夜の集会においてであった。それは「礼拝説教」とは異なる言葉であった。だが主日礼拝の説教は「聖書的」であった。聖書について解釈してみせるというようなことではなくて、聖書を語った。聖書の言葉の自分の言葉とがひとつになった。笹尾鉄三郎の説教の迫力はまさに「み言葉の迫力」であった。
われわれが本誌で追究しているのもまさにそこにある。ここでは連続講解説教を志している。この方法が聖書の言葉を今ここで語る説教の言葉を求め続けるすぐれた道のひとつだと確信している。笹尾、村田両先輩の知らなかった道である。最近、説教黙想の道を拓いたイーヴァントの『説教学講義』を訳出した(新教出版社)。手に取られる方にその迫力を感じ取っていただきたい。このような説教理解が黙想を生んだ歴史を継承していただきたい。そうこころから願っている。