説教塾


特別寄稿

2009年11月23日

「こころを高く上げよう」

    日本基督教団宣教一五〇年記念式典講演より
加藤常昭

 「こころを高く上げよう」。このように歌い出す、讃美歌第二編、そして讃美歌二一にも載せられ、由木康先生のすてきな訳詞によって、私どもが歌うようになった讃美歌があります。この「こころを高く上げよう」という言葉は古くから聖餐を祝う礼拝において聖餐を司式する司祭が口にしたことばであります。たとえば、ローマのヒッポリュトスが二一五年頃書いたと言われる『使徒伝承』は、最も古い礼拝式文と考えられます。それは当時の聖餐の祝いの順序を記したものであります。最初に司式者は平安の挨拶をします。すぐに司式者が言いました。「スルスム・コルダ」、「こころを高く上げよう」。会衆はすぐに答えました。「わたしたちはもう主の方を向いております」。既に主イエス・キリストの方を向いているというのです。そこで司式者は言います。「主に感謝をささげます」。また会衆は答えます。「それはよいこと、正しいことです」。こうして司式者は感謝すべきキリストの救いのみわざを語り始める。忘れてはならないことは、司式者ヒッポリュトスはやがて殉教いたします。ローマの教会はそのような危機にあって主の方へとこころを高く上げ、聖餐を祝い、感謝したのであります。
 ちょうど二〇年前の今月、ベルリンの壁が崩壊しました。それまで戦後四〇年間、東ドイツという国が存在しました。社会主義ドイツにあって戦っていた教会を私はしばしば訪ね、その戦いを僅かながら共有しました。東ドイツ東部のある地域の教会を訪ねたことがあります。その地域の信徒大会に招かれたのです。国家はさまざまな手段で大会を妨害しようとしました。大会前日に国営バスが突然予約を解約、参加者を運ぶことを拒否しました。急いで自分たちの車に分乗する手配をして集まれる者だけが集まりました。開会礼拝に集まった三千のキリスト者が聖餐にあずかりました。陪餐だけに一時間を要しました。全くの静寂、前に進み聖餐を受ける者の靴音、「これはあなたのために裂かれたキリストのからだ」、「これはあなたのために流されたキリストの血」、聖餐を与える牧師たちの低い声だけが聞こえておりました。国家の弾圧のもとにあったキリストの教会は孤独ではなかった。主が臨在される群れでありました。だからこころを高く上げることができる教会でありました。
 宣教一五〇年を記念する式典、おそらくそれに最もふさわしいこと、それは、今ここで聖餐を祝うことであります。こう言ってもよい。一五〇年の時の刻みを数え、今日本基督教団は、その伝道の歴史のひとつの峠に立っています。危機に立っています。危機、クライシス、それは分岐点を意味します。しかも、クライシスのもとにあるギリシア語クリシス、特に聖書が語るクリシスという言葉は、圧倒的に神の審きを意味しました。クリシスはまた、人間の側からすれば決断を意味します。そのために必要な判断を意味します。神の審きの前に立っての決断であります。それは厳しい自己批判をも伴います。確かに歴史の区切りにおいては、そのたびに私どもの自己批判と歴史的判断が問われます。今年も宣教一五〇年を期して、その種の発言が繰り返し聞かれました。日本のプロテスタント教会、何よりも日本基督教団の過去を断罪する声が聞かれました。しかし、私どもは今何よりも神の審きの前に立っております。深い畏れを覚えます。いや、今はこの畏れを回復することこそがまず求められるでしょう。神の審きの言葉を聴かなければなりません。何としてでも。しかし、私は殉教者ヒッポリュトスの「こころを高く上げよう」という声をまさにそこで思い起こす。そしてローマの会衆がヒッッポリュトスの声に答えた声を思い起こす。「わたしたちはもう主の方を向いております」。今回の記念式典に掲げられた標語「キリストこそわが救い」もまた私どもの首を高く挙げようという思いを込めたものでありましょう。
 残念ながら本日は聖餐をもって私どもの祝いとすることはできませんでした。しかも私ども日本基督教団はまさにその聖餐の食卓を引き裂かれているという危機にある。それだけに今問われておりますのは、私どもの姿勢です。どのように立っているかということです。どちらを向いて立っているかということです。私どもも「わたしたちはもう主の方を向いております」と言えるかということであります。少なくとも今私は皆さまと共にこころを高く上げたい。いや、私どももまた言いたい。「わたしたちはもう主の方を向いております」。私どものこころもまた上に向かって、主に向かって高く上げられるのであります。これが既にここで必要な私どもの決断であります。
 そしてローマでは感謝が献げられました。主のみわざが既に行なわれたことへの感謝です。それは聖餐が示す主のみわざに対する感謝です。キリストのからだとして日本基督教団もまた生かされてきたことに対する感謝であります。ヒッポリュトスは殉教者です。まだ迫害の時代が続いておりました。殉教の危機にあってもなお、いや、そのような危機であったからこそこころを高く上げました。私どもの信仰の歴史は一五〇年前に始まったわけではありません。既に一六世紀のキリシタン伝道に始まっております。私が二八年間牧師であった鎌倉雪ノ下教会が親しくしたカトリック雪ノ下教会礼拝堂の奥にある洗礼堂には、北鎌倉にあった被差別部落の長の夫婦が捉えられ、江戸で火刑に処せられた絵姿を掲げております。そこで洗礼を受ける者は、その殉教者たちの後に続く者として洗礼を受けるのであります。私が関わる説教塾が毎年夏に五日間のセミナーを行うために使用する鎌倉の修道院は日本殉教者記念修道院と称します。日本のキリスト教会もまた殉教の歴史を与えられたのであります。
 一五〇年前に伝道を始めたプロテスタントの宣教師たちもまた想像を絶する困難ななか、まだキリシタン禁令の高札が立つ日本で働き始めました。己に死してただその使命に生きた。その労苦について語るいとまはありません。しかし、数多くの宣教師たちの献身的な働きを思い起こしつつ私が改めて聴きたいと願うのは、私どもの伝道の大先輩パウロの言葉、特にそのローマの信徒への手紙第一五章一七節以下の言葉であります。

 わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

 未知の国日本に冒険を重ねて来てくれた宣教師たち、そしてその祈り、愛のわざ、説教の言葉によって救われる喜びを知り、主イエス・キリストを愛し、これに従う決意を与えられた私どもの先輩の伝道者たち、その多くの名が私どもからは忘れ去られた人びとが、もし今ここにあって私どもの前に立つならば口にするであろうと思うのは、この言葉です。やがて私どもと共に神の前に立って異口同音に神に申し上げるに違いないのがこの言葉です。「わたしたちは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしたちを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して……働かれました。こうしてわたしたちは、日本の国をめぐってキリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。
 一九五九年、宣教百年を祝ったとき、私は既に北陸金沢の地で伝道者として働き始めておりました。東京において盛大に祝典が行われることを知ってはおりましたが、招かれもせず、招かれても行く時間も金もありませんでした。教会の仲間たちと自分たちなりの宣教百年の記念をしただけです。今日この日にもこの青山の地に来ることもできず、日本各地で伝道している伝道者の同志のいることを思い起こします。誰かを訪ね、誰かの悩みに耳を傾け、あるいは死に直面しているひとの傍らに居続けているかもしれません。そのような働きがあまねく日本の各地で主イエス・キリストのみわざを担い続けてきているのであります。
 言うまでもないかも知れませんが、伝道者は孤独ではありません。金沢の地で働き始めたとき既に教会員と共に生きている喜びを味わいました。皆で伝道しました。伝道の労苦よりも楽しさが私どもを生かしました。鎌倉の教会には伝道ばあさんというニックネームを持つ女性がおられました。明治の時代に信州の地で生まれておりますが、その家は開拓伝道の拠点として献げられており、伝道の旅を続ける説教者の宿となり、集会所でもありました。そしてその女性自身も夫とともに教会のために働き、終生、自分の家が伝道のために用いられることを喜び、生涯を全うしました。一五〇年の間に洗礼を受けたひとの数は何百万になるのでしょうか。これらの人びとが献げた金銭、時間、労力はどれほどのものになるのでしょうか。私は献身者とは牧師だけのことだけではないと思っております。洗礼を受け、キリストの弟子となった人びとはすべて献身者であります。むしろ報酬を受けて教会で働く牧師たちよりも、全く無報酬で、それどころか財を献げ、いのちの時間と力を割いて礼拝と奉仕に生きてきた人びとこそ献身者の名に値する歩みを重ね、教会の歴史を担ってきました。伝道ばあさん、伝道じいさんがたくさんおりました。伝道おばさん、伝道おじさん、伝道姉さん、伝道兄さんたちが一緒に主のために働いてきました。全国各地に散る日本基督教団の諸教会のいずれもが主日ごとの礼拝を休まず、奉仕に生きる、もしかすると教会の歴史の記録の一隅にその名が刻まれるだけの数多くの信徒たちによって支えられてきたのであります。教会においてだけではありません。主イエス・キリストの名によって立てられた社会福祉、教育の諸施設において献身的に働いてきたキリスト者たちもまた、教会の歩みを担ってきてくれました。だがそれらの教会の仲間たちも言うでありましょう。「わたしたちは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしたちを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」。あるいはまたルカによる福音書第一七章が伝える主の言葉に従って言えば、わたしたちは主が自分に命じられたことを果たしているだけです。そして主が教えられた通りに主に言います。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」。
 宣教一五〇年の歴史のうち日本基督教団が生かされてきた年月も六八年を数えます。さいわいに共同の信仰告白も与えられました。かつての教派の伝統をなお継承しながら教団のなかにあって異なった伝統の教会と協力することを覚えてきた教会もあります。教団成立後に生まれた教会・伝道所の数も多い。また今日教団と諸教会の働きを担うほとんどの伝道者、信徒たちは、教団信徒として洗礼を受け、同じ信仰告白によって育てられた者たちであります。まさしく主のみわざは、日本基督教団を通じても、この国において多くの実を結んできてくださいました。私もまたその教団の伝道者のひとりとして生かされてきたことを喜びつつ、皆さまと共にこころを高く上げることができ、感謝いたします。
 「こころを高く上げよう」。この言葉は本来、哀歌第三章四一節に根ざすものであります。四〇節以下を読みます。

わたしたちは自らの道を探し求めて
  主に立ち帰ろう。
天にいます神に向かって
  両手を上げ心も挙げて言おう。
わたしたちは、背き逆らいました。
あなたは、お赦しになりませんでした。

 「両手を上げる」というのは祈りの姿勢です。しかし、ここで祈りつつ上げるこころは悲しみに満ちています。悔い改めの思いに満ちています。神に背いた罪を認めています。しかもまだ神の赦しが見えておりません。だから悲しみの歌は続きます。哀歌は第二章一九節にこう歌いました。

立て、宵の初めに。
  夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て
  水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ
  あなたの幼子らのために。
彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。

 信仰の作家曽野綾子さんは、この一九節の言葉を引用しつつ、部族対立で一挙に何百万人かの虐殺が起こったアフリカのある国の惨状を描く小説『哀歌』を、今世紀の最初に発表しました。私どもの教会の先輩の伝道者たちは、ただ教会のために伝道したのではありません。私どもの国の救いのために伝道しました。キリストの福音なくして世界の救いはないと確信しました。それは神に背き、神を捨ててしまった人間がどれほど悲惨であるかを悲しむ思いとひとつです。哀歌を書いた預言者は「わたしの目は休むことなく涙を流し続ける」と言いました。東ドイツに生き抜いた私の親友のひとりは、東ドイツの教会はただ嘆くためだけにしばしば教会堂に集まって祈ったと言います。たとえば中国の天安門広場で悲劇が起こったとき、その犠牲者のため、また世界の平和のための悲しみに満ちたとりなしの祈りをしました。中国に遥かに近い日本の教会がしなかった祈りであります。東ドイツ警察は、その祈りの声を圧殺しようとしました。それに応えてなお悲しみの祈りを深めようとしました。そのような教会の祈りの姿勢から東ドイツの独裁体制を倒す民衆の運動が起こりました。
 「こころを高く上げよう」。両手を挙げて私どももまた悲しみの祈りをしましょう。この世界のために。主イエスが平和を宣べ伝えたパレスチナの地でイスラエルをめぐる憎しみの対立が延々と続いている現実を見据えて。私どもの悲しみを喚び起こすものを数えたらきりがありません。しかもそれは私どもから遠いところに起こっている悲劇だけではありません。ある新聞で、ある学校の教師が、生徒たちに言葉を届け、子どもたちが自分の言葉で語れるように労苦しながら口にした言葉を読みました。「今の子どもたちにはつらいことがいっぱいあるんですから」。すると私は問わずにおれません。私どもの多くの教会の教会学校、日曜学校は閑散としています。日本のプロテスタント教会の歴史においてこれほど子どもの姿が教会堂から消えてしまったのは、太平洋戦争中の、しかも特に厳しかった時期を除いたら、かつてなかったことです。いわゆる少子化のせいにするひとがあります。しかし、子どもがいなくなったわけではない。しかもつらさを抱えている。その子どもたちに、どうして主イエスの愛を届けることができなくなったのか。日曜日の朝午前九時から教会堂の玄関を開いて、子どもたちが来てくれませんと嘆いているだけでよいのでしょうか。
 同じようなことがあります。高齢化社会になりました。高齢化と言えば、教会は高齢者ばかりになったと嘆く声を聞きます。そこではどんどん長生きするようになった隣人たちのための祈りはありません。年寄りばかりになって教会が弱体化したことを嘆き、若者に伝道できないために、やがて教会員がいなくなってしまうかという不安を呟く声をさえ聞くだけです。高齢者たちを狙った商売がいろいろあります。ある老年学の書物に「しあわせな老年期」という言葉を見つけました。サクセッスフル・エイジングという英語の翻訳です。現代日本は成功者になることが生き方を決定しています。幼稚園から始まり、少しでもよい学歴を得るために塾に通うのが当たり前になりました。成功に酔う優秀な子どもたちと、満足感に満たされた両親の笑顔がしあわせの象徴です。就職にも成功し、資産を作り、しあわせな家族の営みを作るのに成功し、子育てが終われば年を取ることにも成功する。そこでアンチ・エイジングを謳う美容院が現れる。肉体の健康を保証する商売が繁盛する。しかし、成功したひとたちの陰に失敗した人びとがやまほどいる。挫折して、遂に自殺に至る人びとが万の単位で数えられる国になりました。そこでこそキリストの教会は慰めの言葉を語り、傷ついた存在の癒し手となり、魂への配慮の言葉とわざに生きるべきではないか。教会堂の周辺に心身に傷を負った高齢者がいないのか。主イエス・キリストは今、どれほどの怒りと悲しみを抱きつつ、私どもの国を見ておられるか。哀歌が生まれた神の都エルサレムの荒廃は、今私どもが見る日本の現実ではないのか。教会が預言者のまなざしとこころと言葉を持つならば、私ども自身の怠慢の罪を悔いつつ、涙を流しつつ手を天へと伸ばしつつ、「こころを高く上げよう」と歌わずにおれません。
 現代日本の状況を言い表す言葉としてよく聞くのは閉塞感という言葉であります。先が見えない。周囲も見えないのかもしれません。こころを開こうとしても開くことができない。もどかしさがあります。いらだちがあります。そこで問われるのはキリストの教会、日本基督教団の教会もまた閉塞感のとりこになっているのかということであります。教会は弱いところがあります。すぐ時代のとりこになります。教会がそのような「時代精神」、「時代の霊」のとりこになることなく、それとどれだけ戦うことができているかが問われます。教会もまた閉ざされたままであるのかということです。毎主日、日曜日に親しい顔ぶれが集まり、好きな讃美歌を歌い、説教というよい話に感動し、時に会食を楽しみ、いわゆる家族的な交わりを楽しみ、牧師の心地よいお世話をしてもらい、受洗者と言えば信徒の家族でしかなかったり、教勢が伸びなくても牧師とその家族が生活できる程度の献金ができればよしとする。むしろ閉ざされた家族共同体であることに満足する。一般の家族も夫婦親子が閉ざされた共同体を造って楽しむのに似ている。それでいいのでしょうか。
 キリシタン伝道は、新しく生まれたプロテスタント教会が自己形成にのみこころを奪われていたときに、ローマ教会の霊的刷新を願って生まれたいくつもの修道会が修道院の壁のなかに留まらず、そこから出て来て、とんでもない大航海の冒険をしながら東洋に来て、日本語などという全く異質な言葉を体得し、殉教をすら惜しまない戦いをしてくれたところに生まれました。伝道は出て行くことです。主イエスは迷い出ている羊が帰って来るのを待つのではなく、探しに出て行く羊飼いの話をされました。日本のプロテスタント教会の伝道の基本的な方法のひとつは、信徒たちが家を開いて伝道の場所とし、伝道者がそこを訪ねて聖書を説き、家の教会を形成することでした。日本基督教団は既に改めてその総会において伝道する教会になることを決議しました。しかし、決議をしたり、伝道研修会をしたり、修養会をしたりしていても、それだけでは無意味です。伝道を実践しましょう。一五〇年前の最初に戻りましょう。どこの教会も開拓伝道をしましょう。力を合わせて。初心に戻るのは容易ではありません。一五〇年の間に錆び付いたからだ、習慣化したキリスト者らしい生活を一新して、教会堂の外にまで出て、開拓者である主イエスのあとにお従いするのには、なみなみならない決意が要ります。宣教一五〇年の記念のときこそ、その好機ではありませんか。教団総会に倣い、教区、各教会で伝道の決意を新たにしましょう。
 私は牧師職を隠退したあとも日本各地を訪ねて伝道のお手伝いをしております。教派を問わず招かれたところに行き説教をし、講演をします。至るところ頬を紅潮させてみ言葉を聴く群れに出会います。そしてそれと共に二〇教派を超えるさまざまな教会の牧師、伝道師たちとともに説教塾を結成し、既に二三年、共同の研修を重ねております。登録している塾生は二〇〇名を超え、各地でセミナーを開催し、参加者は二〇〇名を超えます。そこで今、真剣に問い続けているのは伝道する説教とはどのような言葉を語るのか、ということです。「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」。ガラテヤの信徒への手紙第四章二〇節が伝えるパウロの思いを共有するからです。今日の伝道不振の責任の多くを説教者が負わざるを得ません。福音を届かせる通じる言葉を得ていないからです。どうしても言葉を新しくせざるを得ません。一度身についた説教の言葉を新しくするのは容易なことではありません。聖霊とみ言葉の導きを待たざるを得ません。
 ところで今から五〇年前、宣教百年を祝ったとき、信濃町教会の福田正俊牧師は自分の教会の礼拝で「バアルに膝をかがめぬ七千人」という説教をされました。そこで宣教百年を、「神の民である教会が、ただ平穏に百年生きたとか、日本に文化的な意味を残したとかを誇る」祝典をしても、「自分の本質を忘れ、『地の塩』であることも、結局果たせなくなる」と言われました。教会は「主よ、いつまでですか」と終末を待ち続ける。そのような教会にとって百年の歴史を生きたということはたいした意味も持たず、「いわんやこの世に倣う意味で祝典を行う」ということであれば、むしろ自己忘却であると言い切っておられます。そこで思い起こして語り始めるのは預言者エリヤの戦いのことです。神の民イスラエルに絶望するエリヤに神が語られたのは、それでもなお神の真実は変わらず神の民を支え、その神に生かされてバアルに膝を屈めなかった七千人がいたのでありました。そこで福田牧師は、もし教会が時の刻みに記念をするとすれば、「しかしバアルに膝をかがめません」と決意する厳粛な時とする以外にないと訴えておられるのであります。一五〇年を記念するとき、改めて読み直してよい言葉であります。
 そして襟を正しつつ私どもが改めて問わざるを得なくなるのは、宣教二百年の教会に何を残し、伝え得るかということであります。ここにいる多くの者が、そのときは地上にいないのですからなおさら責任は重いのであります。
 だがそのためにも日本基督教団が日本のプロテスタント教会の伝道一五〇年を記念するこのとき、改めて宣教百年を祝って以後の五〇年の歩みを特に思い起こさざるを得ません。しかもちょうど四〇年まえの一九六九年、いわゆる東京神学大学紛争が起こっております。それからの四〇年は、いみじくも山北教団総会議長が「荒れ野の四〇年」として総括した期間であります。五〇年のうち四〇年が荒れ野の旅にひとしかった。しかもまだ荒れ野は続く。約束の地はほど遠い。昨年の教団総会の最終日、私は必要があって議場となったホテルのロビーで総会が終わるのを待っておりました。やがて議員たちが議場から出て降りてきました。議場で何が起こっていたか、多少報告を聞いておりました。ある伝道の戦いの厳しい教区から出席していた東京神学大学の教え子のひとりが私を見つけて近づいて来るなり、その目に涙が溢れました。「とうとう教団はここまで来ました。ぼくはこれからどうしたらいいか」。そう言ったのです。かつてのように議場は荒れることはなくなった。しかし、洗礼を受けていない人びとをまで主の食卓に招く主張の教会が思いがけずこれほど多くなった。そこでキリストの教会としての筋を貫こうとする山北議長がまた選ばれるには選ばれた。しかし、それを支持しない人びとも多い。それが議決の結果に現れた。総会の内部の傷は深い。教区で一所懸命に教団のために働いていたその若い牧師は、自分のなかに崩れて行くものを感じたのです。これからどう戦ったらいいのか。それでもしばらく話しましたら、「よかった、とにかく最後に加藤先生の顔をみることができて。少し明るい光が見えてきました。ありがとうございます」。握手して別れました。
 四〇年前、紛争のさなか私は心身を病んで、医師の勧告があり、しばらく静養を余儀なくされました。遂に東京神学大学校内に機動隊を導入したときも家におりました。私を見舞って、ことの次第を丁寧に報告してくれた同僚の教授が、私に静かに言いました。「ぼくたちの教育の失敗ですね。神さまに申し訳ない」。世界を覆ったラディカルな変革の嵐が吹きました。学生たちも、この「時代の霊」に勝つことができませんでした。教授たちも学生を、この霊の襲撃から守ることができませんでした。教団の諸教会も「学生も悪いが教授会も悪い」と良識派ぶった姿勢で東京神学大学教授会非難決議を重ねて、ナチの時代にドイツ・キリスト者の嵐に立ち向かうことができなかった中間派の人びとと同じ過ちを犯しました。爾来四〇年、教団正常化のために一所懸命に努力した人びとも多い。しかし、一見平穏に宣教一五〇年を祝うに至りながら、むしろ内的な亀裂は深い。特に洗礼を受けていない人びとをもはや未受洗者とは呼ばず、意図的に非受洗者と呼び、その人びとと共に主の食卓を囲むことこそキリストの教会にふさわしいとする神学者、牧師、教会が増えました。二千年来のキリストの教会の伝統を守り、日本基督教団の憲法・規則に忠実に教会を形成しようとする教師や信徒が教区総会で発言すると冷笑されるという悲しい話を聞かされることがあります。そういう教区があることは事実です。日本基督教団関係の神学教育機関がありますが、いずれもひとしい理解で教団の教師を要請しているとは言えません。このような神学的・教会的亀裂の深さをここでなお嘆き続けることはできますが、その必要はないでしょう。誰もがよく知っていることであります。問題は五〇年後の二百年記念を、日本基督教団がどのような姿で祝うのかということであります。まさか「荒れ野の九〇年」と題してそのときの教団議長がまた講演をしなければならないというようなことにはならないと信じます。しかし、そうならないようにどうしたらよいのでしょうか。まさに私どもは今危機に立っております。日本基督教団外の神学者が、ここまで内的な亀裂の深い日本基督教団に何ができるかと書いている文章を読みました。伝道ができるのかと問いかけてきております。
 教団常議員会は、聖餐論において過ちを犯していると判断する常議員のひとりに戒規を執行しようとしておりますが、既に一年以上を経過して、その結果を得ておりません。その牧師と同じ考えの牧師が出てくるたびに、同じような戒規を繰り返すことで現状を打破することができるのでしょうか。真実に教会らしい道を拓くことができるのでしょうか。あるいは教団総会、教区総会があるたびに、まるで政治の世界でするように投票数を読み、多数派工作を繰り返すことで、教団の危機を乗り越えることができるのでしょうか。私は非受洗者陪餐を主張することは、教会が聖徒の集まりであって、しかも純粋に福音が説かれ、正しくサクラメントが執り行われるところである、というプロテスタントの基本的姿勢とは背馳するものであり、キリストの教会ではない自称キリスト者の集団を作るものでしかないと思います。このままでは日本基督教団は教会ではなくなります。既に教会でなくなっているのかもしれません。まずこの危機の認識において、誰がどこまで一致できるでしょうか。そこでどのようにして危機の打開をなし得るでしょうか。
 私は長く連合長老会に属し、更には日本基督教団改革長老教会協議会結成に力を尽くしてきました。この集会においても、連合長老会に属する仲間の牧師たちが、道案内をし、会場内でもピアノを動かしたり、会の準備、運営にも当たっており、うれしく思います。連合長老会は、日本基督教団のなかにあって、教団信仰告白を真剣に告白し、教団が合同教会として形成されることに資するものでありたいと努力してきました。そのためにも明確に旧日本基督教会以来の教派的伝統を大切にしたいと願ってきました。それがないと教団を真実の合同教会とすることができないとも思っております。必ずしも、この志が十分に理解されていないことを残念に思っております。しかし、それ以外にも教団にありながら、組合教会、メソジスト教会の伝統をむしろ自覚的に継承しようとしてきた教会は少なくありません。旧教派の伝統に従い、浸礼を行ない、毎主日聖餐を祝いつつ礼拝をしている教会もあります。会派制に戻る必要はないでしょうが、こうした歴史的諸伝統を尊重することも、現在の危機克服に不可欠なことであります。歴史的伝統を無視して教会が成り立ちません。しかも日本基督教団は合同教会であり続けようとしております。いや、今までよりももっと真剣に合同教会形成に向かって立ち上がりたいと私は思います。この危機に際して、教団が真実の一致に生きようとするならば、何らかの形で教団再編を考えざるを得ないとする若い牧師たちの声を聞きました。教団のなかで育ち、教団の現在を担っている若い世代の牧師たちであるというのです。私もそうかもしれないと思います。
 しかし、そこで私はひとつの提案をしたいと思っております。あまり歓迎されないかもしれませんが、遺言のつもりで提案したいのです。それは議案をめぐって論争するというような形ではなく、神学会議、神学協議会、呼び名はどうでもいいかもしれませんが、教団にあるさまざまな立場の者たちが一堂に会し、三日間でも四日間でもいい、一度じっくりそれぞれが何を考え、何を願って教団のなかで生きようとしているかを語り、それに耳を傾けることをしたらどうでしょうか。自分の陣営だけの者が集まり、他の立場の人びとを論難することに留まらないほうがいい。すぐに非難し合ったり、無視するのではなく、じっくり違う立場の言葉に耳を傾ける。そこでそのように異なる者たちが、なお共に合同教会として教団にあって生きることができるためにどうしたらいいか、共に考える。そのような努力をしたところで再編なら再編を考えることがよいのではないでしょうか。
 さて最後に、私はここにも多く集まっておられる信徒の方たちにも問いたいと思います。この教団の危機を乗り越えるための労苦を、牧師たちにだけ負わせておいてよいかということです。山北総会議長と、これを支える牧師たちに委ねてよいのかということです。危機をもたらした多くの責任は牧師たち、教師たちにあります。それは牧師たちが深く悔い改めるべきことです。だがここで、「わたしたちは主の方を向いています」と言うことができる信徒の方たちに、この危機克服のために手を上に上げ、こころを高く上げよう、と呼びかけることは許されないことでしょうか。真実の教団再生のために力を貸してください。祈ってください。涙を浮かべて戦いを続けようとする牧師たちを助けてください。一緒に戦ってください。
 私は既に八〇歳に達しております。いつ地上から去ってもさほど惜しまれることはないでしょう。それだけに両手を挙げ、こころを高く上げつつ、涙を流しつつ、日本基督教団が荒れ野に勝つために祈ります。そのために集まるすべての方に、「キリストこそわが救い」と本当に言い切るならば、キリストのからだである教団のために献身をお願いしたい。日本基督教団の自己保存のためではありません。教団を改めて主イエス・キリストにお献げし直すための献身であります。こころを高く上げましょう! アーメン



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