2010年3月

2009年2月に名古屋で行なわれた説教セミナーに出席した。「伝道説教の演術と批評」というテーマのもと、参加者が自分の伝道説教を発表し、それを皆で批判・分析するという仕方で学びが進められた。その時に加藤常昭先生がご自分の伝道説教をまな板に載せてくださった。加藤先生の近著『救いはここに -説教によるキリストへの手引き』にも収録されている、「愛の秘訣」という題の説教である。その録音を皆で聴いた。聴く前に、長く洗礼を受ける決断をすることのできなかったある求道者がこの説教を聴いて受洗の決心をした、と紹介してくださった。洗礼の決断に至らせる説教とはいかなるものか。わたしはメモを取りながらテープを聴き始めた。ところが、聴いているうちにどんどんとこの説教に引き込まれ、ついにはメモを取る手が止まってしまうほどに聴き入ってしまった。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(ペトロの手紙一第2章18-19節)。自分に意地悪をする主人にも「心からおそれ敬って」従いなさい、とは、何と厳しい言葉であろうか。ところがこの説教を聴いて心の底から思った。そうだ、わたしの生きる道はここにしかないのだ。そしてわたしもこのように生きることができるのだ。何より、こんなにも喜んでこの聖書の言葉に心を開いている自分の姿に驚いた。
考えてみれば、わたしが説教者として何よりも願ってきたことは、このような聖書の言葉を聴き手が受け入れてくれることではなかったか。赦しがたい心を抱え続けるあの人に、自分の説教の言葉が届いてほしい。どんなに不当な苦しみを受けていると思っても、なお耐え忍んで相手に心を開いてほしい。けれどもなかなか自分の説教が聴き手に届かない。心を動かしてくれない。自分の説教の無力を痛感する。そしていつの間にか心の深いところで、どう語ってもこの聖書の言葉はあの人に届かないのではないかと疑い、諦めてしまっていたのではないか。同時に神が説教者であるわたしにどんなに大きな使命を託しておられるかということ、さらには神が説教を通してどれほど力強く働いてくださるお方であるかということさえも、小さく見積もるようになってしまっていたのではないか。
このような気持ちを自分が抱え込んでいたことを、はっきりと自覚していたわけではない。しかしこの説教を聴いて、わたしは自分の不信仰の罪を思い知らされた。それと共に、説教を通して働かれる神の力への信頼を新たにさせられた。疑いと諦めに勝つ信仰と望みが与えられた。本当にうれしかった。そうだ、説教にはこれほどの力があるのだ。わたしもこのような説教を語ることのできる者としていただきたい。
2009年10月に行なわれた東京説教塾の例会でも説教「愛の秘訣」が取り上げられ、批判・分析が行なわれた。名古屋の時とは違う顔ぶれでこの説教をめぐって論じあった。わたしにとって衝撃的な説教であっただけに、その後も幾度となく読み返してきたが、にもかかわらずこの例会での学びによっていくつもの新しい発見をした。説教批判・説教分析の作業は実に奥が深い。よい説教の優れた特質をできる限り学び取りたいと願うなら、時間と労力を惜しまないで徹底的に批判・分析することが求められる。
けれどもそこで与えられる発見は説教者に望みを開く。なぜならわたしたちはそこで、新しい福音の語り口と出会うからである。これまで思いも及ばなかった福音の語り口を知って、喜びが込み上げてくる。そうか、こんなふうに説教することができるのか。神はわたしたちの説教をこれほどまでに用いてくださるのか。そのような説教への信頼と望みの回復こそが、説教者であるわたしたちを生かす力となり、わたしたちが遣わされている教会に瑞々しい命を与える。神はわたしたちを、そのような説教者として召していてくださるのである。
(安井 聖=日本ホーリネス教団 西落合キリスト教会牧師)