説教塾

ボーレンの葬りのための礼拝から:クリスティアン・メラー /  略歴 /  偲ぶ言葉: ヴァルター・アイジンガールードルフ・ランダウユルゲン・ケーグラー山田晃美 /  書籍

ルードルフ・ボーレン略歴

(子息たちの執筆による)



1920年3月22日─2010年2月1日逝去


 ルードルフ・ボーレンは、1920年3月22日、グリンデルヴァルト(スイス)に、ルードルフ・ボーレンとエリーゼ・ボーレン(旧姓バウマン)の一人息子として生まれた。父は当時既に58歳であったが、郵便局長、カントーナル・バンク・フィリアーレ銀行の創設者・頭取、また暫くは村長でもあったので、このベルン・オーバーラントの村における著名な人物であった。母は、夏や冬のシーズンになると、自分の家を開放して、休暇を過ごす客の宿とし、自分の菜園の収穫物でもてなした。そのためにルードルフは子ども時代から、この山岳の地帯の農村が名だたる休暇地へと変貌するのを身をもって体験したのである。
 ベルンのギムナージウムで学んだ。この頃のルードルフにとって重要な意味を持つ体験は、第2次大戦開戦後間もなくドイツに旅行し、(ヒトラーによって退けられたいわゆる)〈退廃芸術〉の展覧会を見たことである。自分を感動させた現代絵画の諸作品が〈退廃芸術〉として銘打たれていることに驚き呆れたのである。大学入学資格試験に合格したあと、ベルン、バーゼルで神学を学んだ。最も重要な教師とし、模範としたひとはカール・バルトとエードゥアルト・トゥルンアイゼンであり、特にトゥルンアイゼンを魂への配慮に生きるひととして高く評価していたし、後年、特に親しくなっていた。
 牧師補としてなお学んだあと、ベルンのニュデッグ教会の副牧師となった。1947年、マルタ-リュデア・ヴェルナーと結婚した。バーゼルの印刷業者の娘であったが、この家庭はバーゼル宣教協会と深い結びつきを持っていた。同じ年、アールガウ州のホルダーバンクの教会の牧師となった。農民と労働者の教会であった。この地で、カトリン、マリアンネ、ルードルフ、クリスティアンの4人の子が生まれている。1956年、バーゼル近郊のアルレスハイムの牧師となり、一家はその地に移った。
 1958年、ヴッパータール神学大学に招かれ、14年間、実践神学の教授を務めた。この間に、説教をどのようにしたらよいかを尋ねて学ぶ者たち、また牧師たちの道しるべとなった『説教学』が生まれたのである。毎月一度はバルメン-ゲマルケ教会で説教をした。実践を教えるだけではなく、実際にそれを生きたいと願っていたのである。
 1972年、ルードルフ・ボーレンはベルリン神学大学に招かれ、更に1974年にはハイデルベルク大学神学部に招かれた。そのようにしてルードルフとマルタ-リュデアは現在の居住地であるドッセンハイムに移り住んだのである。その間に四人の子どもたちは再びスイスに帰り、それぞれ生活の拠点を据えた。ハイデルベルクでの年月、そして教授隠退(1988年)後の年月を通じてルードルフ・ボーレンがいつも何よりも力点を置いたのは説教研究である。説教研究所を設立、説教を収集、分析に当たるようになった。また説教の活性化を求め、牧師・信徒の継続教育を志して、エキュメニカル説教研究協会を組織した。
 説教者、説教学者、研究者として、ルードルフ・ボーレンは国際的にも光を放った。国境を越えて説教学の仲間と友情を養った。そのため半年にわたって南インドのバンガローで客員教授であった。最初は助手であり、のちに親しい友人となった加藤常昭を通じて日本のキリスト教会とは特別な関わりが生まれている。『神学的にして、食通のための旅行報告─極東への愛の告白』は、三回にわたる日本旅行の最初の旅に読者を共にするべく招く書物である。
 ルードルフ・ボーレンの業績と感化の実りが多かったことは、学生たち、博士論文のための研究者たち、助手たち、同僚教師たち──そして妻たち──の多様な形での助けなくしては考えられなかったことであった。マルタ-リュデアが死去したのち、1979年、エーレントラウト・アイヒホルツと結婚した。1997年、その妻が突然死去して後2年を経た1999年、夫を失っていたウルズーラ・ボーテと結婚した。ウルズーラは、1996年まで陸軍の大佐の妻であり、5人の子どもが与えられていたが、この子どもたちもボーレン家の子となった。ウルズーラ・ボーレンは、よく夫を助け、最晩年になおルードルフ・ボーレンの著書が刊行されるようになった。人生の最後に夫のために尽くした、その献身的な愛とみとりには、私たち子どもは、たいへん感謝している。
 生涯を通じて、ルードルフ・ボーレンは、客を迎えるためにいつも開かれた家庭を作っていた。また故郷グリンデルヴァルトとの結びつきを大切にしていた。何週間もグリンデルヴァルトで過ごし、引退後はグリンデルヴァルトの〈ゲルビ〉の地にあった住まいで何ヶ月も過ごした。散歩をし、きのこを集め、木を切って薪を作り、庭仕事をして、休息の日々を過ごした。庭で採れた果物、サラダ菜、野菜を台所に立つ妻のところに運んだ。高齢になっても、これを誇りとし、喜びとしたのである。
 ルードルフ・ボーレンはただ単に神学者、庭師であったわけではない。芸術家でもあった。若い頃はスケッチをし、水彩画をよくした。しばしばイーゼルを取り出し、こどもたちのうちのひとりかふたりを連れて野外に出た。のちになって詩を書くようになり、それを家族や友人たちに読んで聴かせた。いくつかの詩集が出版されている。そのために1988年にはベルン州文学賞を受賞している。いつも文学を読み耽り、エッセーを書いていた。自分の専門領域はただ単に実践神学だけではなく、芸術でもあると自ら理解していたことは不思議なことではない。
 ルードルフ・ボーレンは2010年2月1日に死去した。情熱を込めて説教をし、神学をし、物語をし、生きることを楽しみ、よく聴き、またよく語ったひとであった。私たち子どもたちは、この父に感謝し、この父をいつまでもなつかしむであろう。



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