説教塾


特別寄稿

2009年7月9日

「神の言葉に生かされるキリストのからだ・教会」

    日本プロテスタント宣教150周年記念大会より(横浜に於いて)
加藤常昭

1.神の言葉に生かされて
 「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」(テサロニケの信徒への手紙1第1章6−8節)。
 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(テサロニケの信徒への手紙1第2章13節)。
 キリスト教会最初の代表的な伝道者パウロは、このように、自分たちの伝道が説教に集中するものであったことを語っております。自分たちが語る言葉を聴いた人びとが、これを神の言葉として受け入れ、説教者の歩みに倣うようになり、それによって主に倣う「主の弟子」としての歩みを始めました。こうしてマタイによる福音書第28章が伝える、復活された主イエス・キリストの伝道命令が実行に移されました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。パウロたちの説教が神の言葉として受け入れられたこと、それがキリスト教会の歴史が始まる小さな一歩でした。2000年のキリストの教会の歴史を貫いて、この説教の歴史が続けられました。そしてこの横浜の地でも150年前に同じことが起こり、日本の地にもプロテスタント教会が生まれました。説教が語られ続けられたからこそ、この横浜における祝典が行われるに至ったのです。
 私が伝道者として石川県金沢の地で説教を始めてまだ3年を経たばかりのとき、宣教100年の記念の年を迎えました。当時も盛大な祝典が東京で行われましたが、それに出席するお金も時間もなく、教会員と共に宣教100年を祝いつつ、伝道に励みました。今この大ホールでこれほどの大会衆と共に宣教150年を祝っているときも、全国にある諸教会で数多くの伝道者たちが、ここに来る余裕もなく、神の言葉を伝えることに励み、集会をし、み言葉を携えて悩みのなかにある人びとを訪ね歩いて、ひたすら奉仕に生きている姿を思い起こします。皆さまにも、この多くの伝道者たちのために祈っていただきたいと願っております。
 それ以来50年間、とにかくパウロと同じように自分の言葉が神の言葉として受け入れられ、神の言葉が響き渡る説教者としてひたすら生きてきました。今はもう現職の牧師ではなくなっておりますが、依然として招かれるところで説教を語り、また今は20教派を超えるほぼ200名の説教者たちと共に説教塾を結成し、ひたすら説教者としての研鑽を重ね、それもまた既に22年の歴史を重ねてきております。
 そこで改めて思うのは、キリストの教会の歴史は神の言葉に生かされ続ける歴史であったということであります。日本におけるキリストのみわざは既に16世紀におけるキリシタン伝道に始まっておりますが、それもまた何よりも神の言葉が日本人のこころに届けられ、これを一新するものでありました。そして既に沖縄から始まっておりました日本におけるプロテスタント伝道も基本的に言って神の言葉の歴史、何よりも神の言葉として聴かれるべく語られ続けてきた説教の歴史でありました。私の基調講演に与えられた25分という時間は、150年にわたる日本プロテスタント教会の歩みを総括するにはあまりにも短い。そこで敢えて私は説教に集中せざるを得ません。これは当然のことと思います。
 パウロは、神に感謝しております。説教に実りが与えられたのは神のみわざです。語り手の手柄でも聴き手の手柄でもありませんでした。私どもも同じです。教会の歩みを回顧するということは神の恵みを数えることです。何よりも日本のプロテスタント教会が、私ども自身の言葉で、つまり日本語で説教をし続けることができたことは大きな恵みです。
 私は1987年、ハイデルベルク大学エキュメニカル研究所で「黄色いキリスト者─黄色いキリスト?」と題して講演し、のちにドイツでも日本でも論文として公表しました。しばしば言われることがあります。日本にはキリストの福音がまだ根付いていない。アフリカに行けば黒いキリスト像をすぐ見ることができる。黒人特有のリズムとメロディーで讃美歌が歌われる。しかし、日本ではキリスト教会は欧米のキリスト教会のありようを移植したが、まだ黄色い花を咲かせていない。いわゆる「外国の宗教」に留まる。頭ではドイツ流に考え、からだではアメリカンスタイルで生きているなどと批判されます。しかし、私は、既に日本のプロテスタント教会は独自の言葉と生活を獲得してきたと見ております。それを何よりも説教において見ることができます。宣教師たちは献身的に伝道をしてくれました。その献身の姿勢が福音の証しそのものでした。そのもとで最初の日本人伝道者たちが生まれ、たちまちすぐれた説教者たちとなりました。私は1972年に『日本の説教者たち』第1巻を書き、その後シリーズ『日本の説教』全29巻の共同編集を、日本における説教の歴史を顧み、その特質を明らかにする努力をしてきましたが、それは他に類を見ないほどに豊かな実りを見せております。
1.一般に説教学では説教を主題説教と講解説教とに分類します。最近の説教は多くの場合、教派を問わず講解説教が多くなりました。しかし、伝道の初期から第二次大戦後まで、もちろん例外はありましたが、多くの牧師がした説教は、厳密な主題説教でもなく講解説教でもなく、隣人に素朴に聖書の福音を説き、訴える言葉でした。「お話」とも呼べる、物語の要素も強いものでした。自分の生活経験に根ざし、存在そのものが言葉になりました。例話も多かったのです。回心を迫る伝道的な要素も強いものでした。繰り返して行われた伝道集会だけではなく、主日の礼拝説教もまた伝道する言葉であることが求められました。教会員に対してもわかりやすい言葉で語りかけようとしました。日本語で日本人に語りかけたのですから、説教こそ〈日本的〉にならざるを得ませんでした。主の福音がどのように日本に根付くに至ったか。それはこれまでになされてきた説教をきちんと捉えることによって跡づけることができます。これをしないで日本伝道論を語ることはできません。
2.われわれ説教者の大先輩のひとりは植村正久です。生来の訥弁の故に、あやうく教師試験に不合格になりそうになったのに、説教の言葉を語るために修練を重ね、代表的な説教者になった旧日本基督教会富士見町教会の牧師であったひとです。植村牧師はこういう趣旨のことを語りました。説教とは、病人の枕元に呼ばれた医師が、病状を丁寧に説明することができても、その病を癒すことができないのと同じようなことでは困る。病を癒すことが肝腎である。キリストの救いを上手に説明することよりも、基督自身を紹介し、其の恵を真正面より宣伝して人の信仰を催すの気合」がほしい。説教とは今生きておられるキリストを紹介し、その恵みを正面から説いて、ひとを悔い改めに導く〈気合い〉のこもった言葉だと言うのです。今、改めて肝に銘じるべき言葉ではないでしょうか。現在説教塾のメンバーとして登録している説教者の数は200名に達し、しかもその所属する教派は20教派を超えております。しかし、この生きておられる主イエス・キリストを紹介する言葉を語りきる使命は同じであると心得ております。伝道するとは、このイエス・キリストを紹介し、今日本に生きるひとりでも多くの人びとにキリスト・イエスにお会いしてもらうことです。その主の名による洗礼を受け、主の弟子となるという出来事が起こることです。
 植村牧師が最も大切にした聖書の言葉は、ヨハネによる福音書第21章が伝える、復活されたキリストが弟子ペトロと交わされた対話です。ペトロは主イエスに三度「わたしを愛するか」と問われ、三度同じように答えます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。もうひとつは、そのペトロが書いた、ペトロの手紙1第1章8節です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。宣教150年に際して改めて、このような私どもの主イエス・キリストを愛する愛を告白しようではありませんか。植村牧師は当時既に霊性の危機の時が来ており、霊性が癌のような悪性の病に悩んでいると見ました。そしてその霊性が癒され、回復する時、それはこのイエスへの愛によって実を結ぶと見たのであります。
3.私ども説教者たちは、今日の私どもの伝道の実りが乏しいのは私ども説教者たちの責任であるということを認めなければならないと思っております。私どもの説教の言葉が届く言葉になることを必死に祈り願っております。主イエスはかつて弟子たちを伝道に遣わされた時、こう言われました。ルカによる福音書第10章16節です。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。私どももまたこのような言葉を語ることを命じられております。かつてドイツの神学者ハンス・ヨアヒム・クラウスは、私ども説教者は国を代表する全権大使と同じように、キリストから神の言葉を語る全権を委ねられていると言い、そのような力ある言葉を語るために、どうしたらよいかを語りました。『力ある言葉』という表題の訳書となっております。150年の間絶えることなく語り続けられた説教の使命をどのように継承したらよいか。この視点で改めて自己批判を重ね、説教変革の冒険に出るべき時が来ていることは確かであります。説教塾に集う者たちは真剣です。何度も合宿し、借用しているカトリック修道院の黙想の家の個室にこもって祈り、み言葉を黙想し、共に祈り、釈義をし、文献を読み、語り合い、また説教を聴いてもらい、批判してもらいます。厳しい批判を喜んで聴きます。文字通り親しい説教者の同志の交わりが生まれております。そして願っているのは、同じように説教研鑽のために改めて修練をする説教者の群れが至るところに生まれることです。説教者たちの労苦を理解し、支える信徒の運動が起こることです。説教塾は一年に一回紀要を刊行し、またホームページを公開しております。ぜひご覧になり刺激を受けていただきたいと思っております。
4.教会の歴史を私どもが振り返るとき、繰り返して批判的に問うべきは、この日本の歴史のなかで何を語ってきたかであります。太平洋戦争中における教会の姿勢もまた問われ続けます。しかし、それはただたとえば日本基督教団の当時の指導者たちの言動のレベルだけではなく、説教のレベルにおいても問われるべきです。劇作家木下順二さんは洗礼を受けながら、牧師の時代に振り回される説教を聴いて落胆し、教会から離れました。しかし、哲学者今道友信さんは、所属すカトリック教会のだらしなさに辟易しながら、たまたま聴いた五反田教会の佐伯儉牧師の揺るがない姿勢の説教に感動し、これを聴き続けたそうです。私は13歳で、当時通っていた教会のわれわれ若者たちの願いで招いた矢内原忠雄先生の礼拝説教にこころを打たれ、太平洋戦争のさなかに受洗しました。カール・バルトを一緒に読んでくれながら、警察官の監視のもと、預言書を説教し続けた牧師の説教を緊張しながら聴き続けました。しかし、敗戦後、いわゆるキリスト教ブームに足下を掬われた牧師の説教の堕落に失望し、吉祥寺教会の竹森満佐一牧師の説教によって救われました。私は戦争中の伝道者と教会の言動だけではなく、敗戦後の60年余、何を説教し続けたかもまたきちんと自己吟味すべきだと思っております。そうでないと今このとき、説教の姿勢をただすことも覚束ないでありましょう。


2.キリストのからだ・教会
 説教はキリストの臨在を証しすると言いました。パウロは、そのような説教の具体像を見事に語っております。説教者が肝に銘じるべき言葉です。コリントの信徒への手紙1第14章24節、25節です。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」。
 コリントの教会は何らかの形で集会をしております。とにかくそれは預言を聴く集会でした。預言という霊の賜物、カリスマを与えられた者が神の言葉を語り、聴く集会です。そこでは特定のひとりの預言者、説教者が語ったのではなく、「皆が預言した」とあります。実際にどのようにしたのかはよくわかりません。いずれにせよ、この預言は、第14章が初めから語るところによれば、第13章が語ったように愛の言葉であります。愛の言葉ですから空しくはありません。また理性のある者に理解できる理性の言葉です。未信者でも理解できます。理解した言葉にその存在の深みまで捉えられます。「罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」るという罪を知らされる経験をします。悔い改めに誘われます。そして神の臨在を知り、その神の前にひれ伏して礼拝します。どこに神がおられるのか。「あなたがたのなかに」であります。集会に集まっている教会の人びとのなかに、であります。この教会をパウロは「キリストのからだ」と呼びます。イエス・キリストは見えない存在です。そのキリストがどのような方であるかを、キリストの歴史的身体である教会によって知ります。キリストの臨在を証しする説教は、この教会において語られる教会の言葉であります。説教が神の言葉であろうとするとき、忘れてはならないのは、第2スイス信条が語った「神の言葉の説教が神の言葉である」というテーゼです。神の言葉である聖書は、それが説教によって語られたとき神の言葉として語り出すということであります。当然説教と共に、私どもが聖書をどのように読んできたかをも吟味しなければなりません。しかし、今はその聖書が教会という共同体のなかで説教を通じて語り続けてきたことだけに目を注ぐことにいたします。日本における説教を問うことは教会を問う問いと重なります。
 ところで、150年の歴史のなかで形成されてきた日本のプロテスタント教会の営みにおいて、日本固有の説教と共に、神の大きな恵みとして数えることができるのは、日本独自の教会が形成されてきたということであります。洗礼を受けてキリスト教会員となり、教会生活を重ねてきている者たちが欧米の教会を訪ねますと、日本の教会とはずいぶん異なるものであることを知ります。特に私が過ごしたドイツの教会とは異なります。宣教150年に際して既にかなり多くの言葉が語られておりますが、そのひとつの軸になっておりますのは教会論です。今私どもが生かされている教会の姿、これまでの歩みを批判的に検証しつつ、将来を展望しようとしております。そこで浮かび上がって来る教会像は教派の違いを超えて共通の姿を見せているとも言えるようです。
 日本基督教団は教会の教師を立てるために教師検定試験をいたします。私が50年以上も前に受験した頃、最も成績がよくなかったのは、教団憲法・規則、そして宗教法人法に関する試験でした。私が東京神学大学で教えていた頃も同じような状況であり、試験直前に私が、まるで予備校の講師のように、こうした法に関する試験で落第しないで済むこつを伝授する特別講義をしたことさえあるのです。キリストの教会が教会であるためにきわめて重要なのは教会を教会たらしめる法があることをわきまえるということでありますが、それが見事に欠落しております。長期にわたる日本基督教団の内的混乱はいまだ解決を見ず、むしろ、洗礼を受けていない者を聖餐に招く教会が増え、またそれを許容する発言がますます声高になってきております。その根底にありますのは明らかに〈教会の法〉に対する傲慢な無知であります。教会を教会たらしめているのは法であることを軽視することの方が人間らしい共同体としての教会を造る道であるとさえ考えてしまっております。
 教会を教会たらしめるより重要な規範は言うまでもなく信条・信仰告白です。旧日本基督教会が1890年に生まれた時、世界でも珍しい簡潔な信仰告白文章を採択し、その伝統が日本基督教団によっても継承されました。これは正しい判断であったと私は評価しております。しかし、そのような信仰告白文書であっても、日本におけるプロテスタント教会形成にどれほど重要な役割を果たし得たかは疑問です。かつては多くの教会で礼拝において使徒信条を告白する慣習はありませんでした。教会のアイデンティティが確立されるためには信仰告白は重要です。最近ではいわゆる福音派の教会でも礼拝で使徒信条を告白するところが出てきております。私の周辺では西欧教会の伝統に倣い、ニケア信条をも礼拝で告白する教会が増えました。これまでの日本のプロテスタント教会の歩みを反省してのことであると思います。
 ついでに言えば、キリスト教会のアイデンティティが確保されるもうひとつの道は主日礼拝です。日本のプロテスタント教会は、簡潔な信条と並んで、まことに簡潔な順序による礼拝をしてきました。母国の教会ではより複雑な順序、リタージーによる礼拝をしていた宣教師たちも、伝道地日本に適合したシンプルな集会をしたのではないでしょうか。それが簡素を旨とする日本人の心情に合ったのかもしれません。説教をたっぷり聴くためにも適切であったのでしょう。今は多少事情が変わってきました。各教派において礼拝研究が進み、新しい式文が次々と発表されております。キリストの教会らしい礼拝をしようとする試みは評価されるべきでしょう。ただしこころすべきことは、礼拝への関心が強まるとき、それはしばしば説教についての関心も確信も衰える時だという警告が発せられてきたということです。私どもの場合、そのような警告は無視し得るかどうかが問われるでしょう。私は昨年説教塾ブックレットのひとつとして『礼拝を問い、説教を問う』という小さな書物を出し、〈葬式仏教〉ならぬ〈葬式キリスト教〉とも言うべき形式的な冠婚葬祭機関に堕落した教会が増えてきてはいないかと警告したことがあります。それも含めて儀式的な礼拝を守っていれば教会は生き得ると考えることはできません。そのことに気づいていれば、礼拝に対する新しい関心が生まれていることは評価すべきです。
 もちろん規則や信条・信仰告白、礼拝形式が無視されてきたわけではありません。しかし、それらが日本のプロテスタント教会のアイデンティティを確保してきたかと言うと、そうではありませんでした。そのことに気づいて批判的になり、改めて姿勢を正そうとする傾向が見られるようになったということです。これは日本のプロテスタント教会の成熟を示すこととして評価してよいであろうと思います。
 それならば私どもの教会のアイデンティティは何によって確保されてきたのでしょうか。ひとつは明らかに牧師です。鎌倉雪ノ下教会という名を聴けば、多くの人は、ああ、加藤常昭牧師の教会ですね、と言いました。これは特にプロテスタント教会では避けられないことです。しかし、教会のアイデンティティが現任の牧師のアイデンティティと重なってしまうと危険です。洗礼を受けていない者でも聖餐にあずかってよいではないかという考えの牧師がおりますと、その教会はその考えによる聖餐をします。礼拝形式に関心を注ぐ牧師がいると、その考えに基づく礼拝をします。しかし、その牧師が去って別の考えの牧師が来ると教会の姿勢が変わります。牧師は自分の考える通りの教会を造ろうとします。信徒はそれに従うのが当然だと考えます。説教もまた教会の信仰・神学を語ることよりも、牧師自身の神学思想、独自の聖書解釈を語って当然とします。主イエスの弟子ではなくて、今牧師である者の弟子が育てられます。「私は何某牧師の弟子です」というようなことが当然のこととして語られます。無教会と同じことになります。どこの教会で養われたかは第2のことになります。私はここに牧師の教祖化の危険を見ます。いずれの牧師も教祖になるか、なりそこなうか、いずれにせよ、その誘惑のもとにあります。教会はそのような牧師が経営する宗教法人になってしまいます。金沢におりましたとき、私は周辺の住民からしばしば「教会さん」と呼ばれて閉口しました。「お寺さん」という呼び名と同じニュアンスが込められておりました。そのような牧師の営みが〈自由な教会〉というモットーのもとで正当化されます。
 しかし、この誘惑は信徒もまた免れません。私は予想以上に多くの教会が信徒の手に握られていると見ております。牧師は転任します。しかし、その土地に住み続ける信徒たちは生涯同じ教会の教会員であり続けます。教会の経営の実権はしばしば信徒、時に有力信徒と呼ばれる人びとの手に握られております。牧師の説教も牧会も信徒の気に入るものであることが求められます。やはりそこでも〈キリスト教〉という名の宗教的な営みであることが求められます。信徒が雇用者で、牧師は被雇用者のような立場に立たされます。
 クリストクラシーという言葉があります。牧師か信徒の独裁でもなく、少数の者たちによる貴族支配でもなく、皆で思うような教会を造るデモクラシーでもなく、キリストが支配してくださる教会の姿を示します。私は会衆制、長老制、監督制という古来の教会の制度を大切にしたいと思っております。各教派の信仰の特質を明確にする信仰の言葉も改めて大切にしたいと思っております。しかし、いずれもキリストのご支配が地上に実現するために立てられている教会が文字通り〈キリストの教会〉となるための道であります。キリスト支配は、それを確立する説教の言葉が明確に語られ、キリストの前にぬかずく教会の礼拝によって具体化します。そして牧師も信徒もそれぞれに与えられているカリスマを生かして、この主のからだとしての教会を造ることを課題として与えられるのであります。
 ひとつ提案をします。それぞれの教会でも宣教150年の記念礼拝をしましょう。神の言葉を改めて聴きましょう。そこに生まれる悔い改めのこころを言い表しましょう。キリストの恵みの支配をもう一度受け取り直そうではありませんか。



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