[sekkyoujuku:010435] 読書会A�G報告 Subject: [sekkyoujuku:010435] 読書会A�G報告 From: Date: 2022/02/23 10:07 To: sekkyoujuku@sekkyou.com 加藤常昭先生 説教塾の皆様 主の聖名を讃えます。 昨日の読書会Aの報告を簡単に(詳細に報告すると恐らく一日かかる) させていただきます。 私のメモでは最大19名の参加でした。 渡邉洋子先生の振り返りから始まり、 この夜は42ページの最後の行から52ページまで 亀田威先生、渡辺一夫先生、小山稔先生、安井聖先生に朗読していただきました。 ボーレン先生と対極にあるようなディートリッヒ・レスナーの言葉から始まり、 加藤先生からそのレスラーが行き詰った深刻な講演を聞いたことがあるとのお話から、 レスナーのお話を取り上げたこと自体、興味深かったです。 「われわれは神学者として、神について語るべきである。しかし、われわれは人間である。 そして人間としてのわれわれは神について語ることはできないのである。」 このカール・バルトの最初の命題の前提が覆されていたことを 加藤先生のお話からも知りました。 すなわち当時のドイツの神学生が、教会の礼拝にに出席したことがない、 そのまま職業としての��牧師�≠ノなるという現実です。 ��神の死�≠謔閧烽キさまじい��神の不在�≠ェあるのです。 それは、ポストモダンと呼ばれる現在、顕著な現象であるを言わざるを得ません。 エッギマンの詩が紹介され、加藤先生からもこの詩人にまつわるボーレン先生の 楽しいエピソートが披露されました。 『神の沈黙は、神のみが破りうる沈黙としてこそ見なされ、尊重されることを求める。 それゆえに、あらゆる説教にとって、「われわれはいかにしてこのことをしてなし得てるのか」という、 うち破られた沈黙に驚く、驚きからの問いが始まる、おそらバルトに続く時代においては、 この驚きをあまりにも早く学びそこねたのである。』〜『説教学』48ページから〜 昨夜の学びは、現代を生きる説教者たちにも語られ、 横たわる課題の多さ、深さ、広さに思いを深めることになりました。 『説教学』は、まだ序論的行程を走っています。 最後のお祈りは、工藤進先生にお願いしました。 次回は3月8日(火)、同じ期18:30から 「説教学」の53ページ  第2章第�U節「言葉を失った世界において語ることについて」から読みます。                                 説教塾読書会A世話人 中井