[sekkyoujuku:010100] Bーレンの説教論 Subject: [sekkyoujuku:010100] Bーレンの説教論 From: 加藤常昭 Date: 2021/11/24 18:23 To: sekkyoujuku@sekkyou.com 説教塾の皆さまに 今週月曜日、22日の夜、ボーレン教授の『説教学』第一巻の最初の部分を読み終わりました。第一部第一章を終えたのです。最後の部分だけを、改めて、ご紹介します。 この点に、説教せざるを得ない究極の理由がある。説教が受け身のもの Leiden- schaft〔情熱の意味を持つこの語に両意を持たせている〕であるということ、ここに 神の派遣の行為が行なわれているということ、救い主の呼びかけがなされているのだということが、 ここに含まれている。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての 国民を弟子として......」(マタイ二八・一九)。「すべて重荷を負うて苦労している者 は、わたしのもとにきなさい......」(マタイー一・二八)。いずれの場合も、派遣においても、呼びかけにおいても、待っておられる方が語っておられる。それゆえに、われわれの説教は、二重の観点において受け身の苦しみ Leiden-schaft である。―― 結局のところやはりここで受ける苦しみは、説教者にとって自分が語りこむべき期待の地平線が、くり返し暗く見えなくなってしまい、自分がどこでもどんなに期待されているか、ということがわからなくなり、何よりも、ごく身近に自分を待っていてくださる 方を見失ってしまうことなのである。われわれは、見えるところによらず信仰によって生きているのであるから、この見えないという苦しみなしに、説教において「情熱をこめて喜んでいる」ということはないのである。しかし、われわれが説教しているそのお方は、今来りつつある方であり、そのような方としてわれわれの説教を待っていてくださるがゆえに、喜びへの出口を開かぬ苦しみは、ここには存在しないのである。 ここを読んだとき、いくつかのことをお話しするつもりでした。しかし、朝から、セミナーのために提出された説教を読んでいたこともあってか、ひどく疲れ、いつもよく準備する楠原博行牧師も発言されているので、黙っておりました。さぼってしまい、申し訳ありません。ここで少し、遅すぎますが、償いの言葉をそえておきます。 �@第1章は、情熱としての説教から語り始め、説教はホビーの一つであるかのようにさえ言い、何よりも説教は喜びのわざであることを強調します。しかし、その章の終わりには、情熱としての説教が苦しみであることを強調します。英語でもpassionという言葉が、情熱とともに受難、塾をも意味し、主のご受難も主のパッションと言います。ドイツ語の情熱と訳されるdie Leidenschaftという言葉も同じことだと言います。説教を喜びだけではなく、苦しみであることを語って、この章を終えるのは、説教者たちに対するボーレン教授の同情の思いを表していると思います。説教者に対する、苦しみの理解を示す説教学の序論というのは意味が深いでしょう。 �Aこの苦しみは、神が見えないという事態に深く関わります。ボーレン教授が深く体験しているのは,神不在という思いを深くしている現代の世界、特にヨーロッパの現実です。そこで神の言葉を語り、聴くという奇跡の出来事としての説教を語ろうというのです。そこで「見えないという苦しみ」を語るのです。この苦しみは,信仰に本質的なものです。ですから、この言葉の少し前に語られていた、私どもを待つ方を見失うということは関係ないと思います。ですからセミナーのなかでも、ブッキラボーに「関係ない」と言いました。説明ぬきでごめんなさい。見えるものによらないということは苦しいことだいうボーレン教授の言葉はこころに残ります。神が見えないという現実が顕になる現代社会において、信仰は神が見えると言い張るのではなく、信仰もまた神が見えないということに苦しみつつ生きるのです。 �Bボーレン教授は,説教とはきせきである、と断言します。説教学としては珍しい考察です。それと結びつくのは,「待つ」という姿勢です。神の言葉の奇跡を待つのです。待つ、というのは、ボーレン先生の神学の基本的モティーフだと思います。ブルームハルトの影響がつよいのではないでしょうか。ブルームハルトはドイツのひとですが、バルト、トゥルンアイゼン、ブルンナーなど、スイスに強い影響を残しました。一般の牧師、信徒に与えた影響も深く、広いようです。その信仰の中核にあるのが、「待つ」ということなのです。しかし、この章の特質は,われわれが待つのではなく、神が待っておられるということを強調しているということです。神は私どもに伝道命令と、安息の呼びかけ(招き)のみ言葉を与えつつ、私どもの説教が語られ、聴くという教会の軌跡を待っておられると言います。だから説教をし、説教を聴くのです。だから苦しみのわざである説教が喜びともなるのです。 �Cこの喜びに向かう苦しみのわざである説教は,また「來たりつつある方」(der Kommende)を待つ望みに生きる、と最後に語り添えます。つまり、説教行為を支える終末論のパースペクティヴにげんきゅうします。 これらの、ここでは簡潔に語られる説教論の骨子が、やがて詳細に語られるところで、説教学の本論が展開されるのです。新しい年、説教論を望み深く読み進めましょう。  望みを新しくするアドヴェントを迎えられますように!              加藤常昭 ? ?