Subject: [sekkyoujuku:009925] 説教塾読書会A�B報告 From: Date: 2021/10/12 10:23 To: sekkyoujuku@sekkyou.com 説教塾のみなさま 10月11日(月)の18:30から読書会Aの3回目が行われました。 簡単に報告と感想を記します。 知り得る限り、最大24名の方が参加して下さり、 わたしの開会祈祷で始まりました。 加藤常昭先生が、今夜は時間通りにZoomに参加してくださり感謝です。 Zoomホストは渡邉洋子先生、 読書会のリードは楠原博行先生にお願いしています。 本日は、本文24ページのケストナーの言葉から始まりました。 以下は、加藤先生の補足的な(時には、急所となる中心的な)説明です。 キリストの御受難のことを連想させる熱情(Passion)という言葉は、 R・ボーレンの詩人としてのたまものを発揮させている。 《ご受難》に代表される苦しみ極めて受動定な事柄を能動的なものに 変化させるのは、教会の歴史の中に<行動至上主義>とも言える考え方がある。 ボーレン先生は直接言及しなくとも、そのことに触れている。 「気違いじみたもの」という訳は、今日では使わない表現ということばかりでなく 正しい訳と思えない。 ドイツ語では、「頭がおかしくなる」という単純な言葉。 考えられるのは、苦しみとは受動的であり、恍惚となる状態を表す。 精神状態が苦しみにあるとき、高揚感がある。 今は名前が出てこないが、ギリシア彫刻でも 苦しんでいる人が男でも女でも、苦しんでいるとき恍惚とした表情を見せているものがある。 「神が正しく高き賛美を受けるのは、 世俗のことに病んでいる精神によりほかないのである」(C ・V・グライフェンベルグ) 精神が病んでいるのは、我々の罪が深いからではないか、という問いに カタリーナは詩人であるからこういう表現をしている。 人の苦しみは地味とは無関係ではない。 前半の終了間際、加藤先生は少し前に説教塾のMLで話題になったD・ボンヘッファーのことを 引き合いにだ出されてご自分の書かれた文章に説教塾の誰も真っ向から意見を言わなかった述べられた。 旧西ドイツではあまり取り上げられないボンフェッファーは 旧東ドイツでは「牧師研修所」の所長として牧師になるひとたちに影響を与えた。 日本では「ナチの抵抗した牧師」として語られることが多いが、 獄中書簡ではそこに変化が見られる。 「世界が大人になる」という表現は今に伝わる。 「世界が大人になる」とは神がいなくなる、必要としない、ということではないか。 そこから、ボーレン先生のご本からは少し離れて 「天皇制」の花井に移り、活発な意見が交換された。 明治維新後、日本の文化は西欧のそれを真似して発展したが、そこに神はいなかった。 東大の哲学の教授であっても、「神を知らない」という。 日本は、旧来の新道的な「神」を土台にしながら、 キリストの神を土台にした西欧文明を発展させた国である。 この国の天皇制は「教育勅語」に代表されるように、それらと一体になって 日本人の精神の奥底に根付いてきた。 そこで、我々は御言葉によって説教を語るのである。 極めて日本的な「天皇制」と闘うのである。… 「ここでは常に生徒であり、初心者であり続けるという意識である。 学びつくしたなどというのは愚か者でしかない。 そして常に初心に帰り続けることのない者は、ただ虚栄に生きるものでしかない。 み言葉は常に新しく開かれ、新しく語られなければならない。」 この言葉が最後に我々に与えられた。 つれづれに昨夜のことを思いだしながら綴ってきました。 正確ではないところ、省略したところも多いかと思いますが、 このあとアップされる録音で補ってください。 最後の感想とお祈りは松木進先生にお願いしました。 「説教を強いられる…」このことを胸に刻んで、祈っていただいた。 21:00に終了しましたが、閉会後も質問が飛び交い、活発なひとときでした。 様々、考えさせられ、説教者として新たな決意を促せられる読書会でした。                         江古田教会 中井利洋