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From: ______@___.______.___
Subject: [sekkyoujuku] 語るべきこと 語りたいこと --シンポジウムで考えたこと--
Date: 2008年12月25日 16:21:32:JST
To: _______@sekkyou.com



品川教会の吉村です。
主イエスが来てくださった降誕の恵みの内にお過ごしのことと思います。

シンポジウムの初めに、神港教会で加藤先生の講演がありました。
2時間あまりの話で、いろいろなことが語られましたが
とてもわかりやすかったと思いました。
あんなにいろんなことを言っているのに、
わかりやすいのは何故だろうと
六甲に向かう車の中で考えました。
もちろん、理由は、話の展開の仕方とか、表現方法とか、いろいろ考えられますが
当日わたしが考えたのは、これは加藤先生の情念だな、ということです。
講演に一貫していたのは、もちろん話の内容もそうですが
先生の情念でしょう。
つまり、これを言いたい、これを伝えたい、という思い。
それが話の原動力になっていて、その上に、個々の話が乗っている、という感じです。


だから、それぞれの話が、わかりやすくなる。つまり、心に残る。
情念というのは、加藤説教を理解する、ひとつの鍵かな、と思った次第です。

それにくらべて、わたしたちの話に(わたしの話に)、わかりにくさが残るのは
話が情念のレベルにまで深まっていないからだ。
つまり、「言うべきこと」が、「言いたいこと」に、なっていないからだ
と考えました。

説教準備の段階では、黙想や釈義を積み重ねて
「語るべきこと」を見つけ出します。
それが見つかったなら、それを語ればよい、ということですが
どうもそれでは、まだ不十分らしい。
「語るべきこと」が「語りたいこと」にならないと、だめらしい
と、思いました。

「語るべきこと」は、聖書テキストや、教理から出てくるものです。
説教者は、それを、自分の知識や信仰、そして経験から見つけ出しますが
この作業には、「誰がやってもある程度は同じ」という面があります。
つまり、客観性がある。
そこに、共同の黙想というものが可能になる理由があります。

しかし、「語りたいこと」は、説教者の中から出てくるもので
これは人によって違うでしょう。
しかも、「語りたいこと」は、正確には、「あなたに語りたいこと」なので
当然そこでは、聴き手の姿が捉えられているはずです。
つまり、説教者が違い、聴き手が違えば、当然「あなたに語りたいこと」は違ってくる。


そして、それが説教だということです。

説教塾の説教は、説教者を排除しない、ということですが
それは具体的には、
「語るべきこと」に比して、「語りたいこと」を軽視しない、ということです。
いや、単に「軽視しない」のではなくて、それを中心に据えよう、ということです。

そうなると、ひと昔前に話題になった、晴佐久神父という人の
「あなたに語りたい」という説教シリーズがありましたけれど
そこに説教塾の説教は、近くなっていく、ということになります。

(わたし自身の説教について言えば、
どうもそうなりつつあるような気がしています)
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ところがひとつここに問題があって
というのは、教会の中には、
「語るべきこと」を」無視して、「語りたいこと」をほしいままに語って
教会を混乱させている、怪しからぬ輩が、右にも左にもいる、ということです。

そういうことから、「語りたいこと」を抑制して
「語るべきこと」の中に、身を引いてしまうという人も、少なからずいるでしょう。
しかしそれは、「説教者を排除しない」ことを標榜する説教塾においては
本道ではありません。

確かに、説教者を排除しない、ということは、危険を伴うこともであるので
そう簡単なことではありません。
それだからこそ、徹底して「説教者を問う」ということも、必要になります。

そういうことをふまえた上で、なお、「あなたに語りたい」という説教を
目指すことになると思います。

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そのときに、どうしても問題になるのは
「語るべきこと」と、「語りたいこと」の関係です。

この点については、わたしもまだ確かなことが言える段階にはありません。

それでも、さっき「話が情念のレベルにまで深まっていない」と言いましたから
「語るべきこと」を深めていけば、どこかで、「語りたいこと」と結びつくだろう
とは、何となく思っています。

その前提にあることは、神が対話の神であられることです。
つまり、「語りたいこと」がおありになるのは、神ご自身であって
聖書テキストは、その表現である、という理解がある。
そうすると、黙想や釈義で明らかになる、「語るべきこと」というのは
「神がお語りになりたいこと」であって、
それを説教者が、自分の「語りたいこと」として語りうるかどうかが問題、ということになります。

アメリカの説教学が、聖書テキストのフォーカスとか、ファンクションを問題にするのも
(つまり、聖書テキストは、何かをしようとしているのだ、という考えです)
このような考えから来ているのでしょう。

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神がお語りになりたいことを、自分の語りたいこととして語る、ということは
神に成り代わって語る、ということです。

確かに使徒パウロも
「キリストの使者の務めを果たして」いる者として
「キリストに代わってお願いします」と言っていますから
同じく使者であるわたしたちにとって
成り代わって語ることは、やってはいけないことではない。

ただ、パウロのように、そこへ踏み込めるだけの確信があるか、ということになります。


もちろん、神にお語りになりたいことがある、としても
それに対する説教者の立ち位置というのは、
成り代わって語る、だけではない。

横に立って紹介する、という姿勢もあり得る。

しかし、「語るべきこと」を、情念のレベルにまで深めようと思ったら
横に立って紹介する、だけでは済まないような気がします。
どうしたって、成り代わって、語ることになるのではないか。

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以上のようなことを考えながら

さしあたりは、聖書テキストの黙想や釈義を通して、
「神がお語りになりたいこと」を捕らえうるか。

それを、「あなたに語りたい」こととして語りうるか。
に、心を注いでみようと思っている昨今です。






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